Genesis of the Mind

最近はじめたアクアリウムや日々のあれこれを書きます

生き物を飼うということ

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昨日今日とメダカが死んでしまい
3連休のうち2日間は葬儀から一日がはじまった。

共同墓地の花壇へ葬送する。
霊柩車は私の手のひら。
土の上にそっと乗せ手を合わせていると、
ダンゴムシたちが集まり、亡骸に群がる。
そして翌日には元どおり土があるだけになる。

生き物を飼うということは、学び、還元することだと思う。
どんなに大切に扱ったとしても、どうしても死なせてしまうこともある。
だから、生きている姿だけではなく、死んでしまった姿からも学ぶ。
そしてなにかしら自分が彼らに還せる行動をすること。
そこまでが必要なのだと思う。


死んでしまった要因を分析して、同じ過ちを繰り返さないこともそうだし、
コンラート・ローレンツが言うような「現実の動物たちの魔法」を絶やさないための行動を起こすことも一つだと思う。

 

【バイオリージョナリズム

私は環境保護に漠然とした興味はあるものの、実践の仕方が分からずにいた。
そんなとき、バイオリージョナリズムという思想を知った。生命地域主義とか、生態地域主義などと訳せると思う。

正直私はまだ、この手の行動を取れていない。
あくまで思想をかじったことがある程度だ。

 「生態地域(bioregion)」とは自治体や町村などの行政上の区割りではなく、地理的・生態系的にみた地域の特徴から決まり、古くからその土地に固有の文化が育まれてきた地域である。 [中略] 隣接する地域とは異なる、その地域に特有の植物相や動物相をもつ地理的空間であり、自然の様相によって左右されるために柔軟性と可変性を持っている。

赤池学「『生命地域主義』によるコミュニティ・マインドの復権」『社会教育』第53巻11号(1998)

 

禅を深く探究していきますと、いま自分のいる場所が世界の中心であり、すべての存在はそれぞれ宇宙の中心であることがわかります。逆に言えば、今いるこの「場所」についてを深く知れば知るほど、ほんらい環境の中でさまざまものと一体のものとして生きている自分自身の存在に気づくことができるのです。その気づきは享楽的な一時的な喜びではなく、自己存在が自分を取り巻いている山や川、植物、野生動物などと共鳴して生きているという深い喜びです。 [中略] たんなる知識としてだけでなく、いま自分のいる場所について深く知ることは、生命地域主義の基本です。その土地の気候を知り、地形つまり川や山について知ることが出発点です。そしてその場所の植生についての認識が必要です。ある植物がどのように分布し、その生態学的な意味を理解する必要があります。さらにその植生の歴史的な背景を知ることです。

長い人間と環境の交渉のなかで、植生が変化していたりします。潜在植生がどのようなものであるかにも注意を払う必用があります。つまりその土地で人間がどのように生きてきたかを探るのです。

生命地域主義(バイオリージョナリズム)について | ダルマサンガ-Dharma saMgha

 

ぼくの好きな詩人ゲーリー・スナイダーはバイオリージョナリズムっていうのを唱えたんですけど、 ぼくも地元に帰って、自分の生まれ育った流域について調べてみたいと思いました。 それは土地のルーツを知ること、同時に、自分自身のルーツについても知ることかなと思います。 そして、土地について調べると同時に、川の清浄作業にも参加しようと思っています。 環境保護うんぬんという話は、いつも視野が広すぎて、結局なにをすればいいのか分からなくなってしまいます。 だから、自分の身のまわりにある、自分が愛してきた自然を、とりあえずは愛でようということです。 正直、自己満足以外のなにものでもありません。 でも、いつまでも綺麗でいてほしいと思う気持ちから活動して、 そのうえ他人にはなにも強制しないのですから、それでいいんだと思います。

昔の自分のブログ


 少しずつ、そういう活動も進めていきたいなと感じている。
強い情熱もなければ、強い問題意識があるわけでもない、ただの知的好奇心だけど、それで良いと思っている。

私の住む地域(流域)でもこの観点にもとづいた活動は行われているようで、NPO法人まで設立されている。もしかしたら、この法人のおかげで私自身幼いころから自然に親しむことができ、今があるのかもしれない。

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お手伝いできるときに参加したいと思います。